●小杉西明寺 龍宿山金剛院西明寺
・奈良時代に有馬龍宿山に創建された西明寺は、市内でも屈指の古刹といえるでしょう。木月の金剛院と合併し、現在は小杉へ移転されています。当源泉である霊光泉との係わり合いがとても深いお寺です。
【所在地】 神奈川県川崎市中原区小杉御殿町1−906
■西明寺の由来 (現在の小杉西明寺でお配りしているご案内)
西明寺は京都七条通りにある智積院を総本山とし、真言宗智山派に属しています。正しくは、龍宿山金剛院西明寺と称し、かつては門跡寺院醍醐三宝院の末でありましたが、江戸末期か明治初期にいたり智積院末となりました。徳川四代家綱公の時代(延宝三年乙卯-今から三一五年前)の古文書によれぱ、西明寺には、多摩川をはさんで武蔵国(今の東京・神奈川の一部)一円にわたって、門徒二十五ヶ寺があったことが記されています。その時は、三宝院末で、御朱印拾石が下附されていました。更にさかのぼると、西明寺は現在の高津区野川の養護寺(今の影向寺)の末、三寺九院の一つであったということですから(影向寺縁起による)その創建は奈良時代ということになります。もちろん、この頃は、西明寺は有馬にありました。
当時の野川一帯は養護寺を拠点とした文化の中心であったことが想像されます。養護寺は聖武天皇の新御願寺(勅願寺)で、朝廷の関わりも深く、鎌倉時代になると北条時頼公などもしばしば参詣し、その折り、西明寺とも縁あって再建につとめられました。時頼公が西明寺中興開山といわれるのは、そのためかと思われます。今有馬に鉱泉が湧き、有馬温泉として賑わっていますが、その鉱泉も曽って西明寺の霊泉として世の人を救った鉱泉と鉱脈が一つではないかと思われます。
徳川家康公が天下を取ってからは、居城を江戸に構えたので、江戸に入るため中原街道を通りました。江戸に入るためには、多摩川という難所があります。難所は視点を変えれば要害となります。そのために西明寺の前の通りを鉤形に曲げて、防御しやすくし、小杉御殿を建てたのです。それから徳川家と西明寺は縁が深くなり、西明寺を殺生禁制の地と定め、葵の御紋入りの朱塗りの駕籠が西明寺におかれ、代々の住職が年賀の折りなどこれに乗って町を挨拶して回ったようです。
参勤交替の大名なども、川留めで多摩川を渡れず川崎に留まっていたおりなど、この駕籠を借りて他に先んじて多摩川を渡ったといわれています。現在、境内にある観正木食上人の碑などに、御本丸御奥、西丸御奥、久留米御奥、柳生家御奥、松平家、真田家の御奥などの名が刻まれているのを見ても徳川家との因縁が深かったことが伺われます。
大正十三年に本堂が焼失し、古文書なども水びたしになって、由来の詳細を知ることができませんが、西明寺がこの地方の名刹として、江戸名所図絵などに載っているのをみても由緒ある寺であることは間違いありません。
御本尊様は金剛界大日如来ですが、その他、不動明王、毘沙門天、弁財天、愛染明王、大黒天、十一面観音菩薩など、多数の佛像が安置されています。
また、西明寺は玉川八十八ヶ所霊場第二十番礼所であり、東国八十八ヶ所霊場第九番札所および、準西国稲毛三十三ヶ所観音霊場第十八番札所でもあります。
なお、川崎七福神の一つとして大黒天をお祀りし、元旦から一週間御開帳し、歩け歩け運動と相まって、賑わっております。
平成二年十二月記
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