あとがき

 『万葉集』の中の橘にかかわる歌がある。

 橘は実さへその葉さへ枝に霜降れどいや常葉の樹(巻61009)


 川崎の歴史は古い。市域には縄文・弥生時代からの遺跡が広く分布し、地域の歴史は古代から現代まで脈々とくり広げられてきた。それにまつわる名所・旧跡・由緒ある古社寺等も少なくない。また江戸時代になると東海道や脇往還筋に沿った宿場町を中心に発達し、特に幕府の政治的・経済的な基盤として重要な位置を占めていた。

 天台宗影向寺は、川崎市宮前区野川の高台にあり、天平の昔に創建されたというまさしく古刹だ。また当地はいにしえから橘樹郡と呼ばれていた地域であるが、この地名もたいへん古い。『日本書紀』安閑天皇元年(五三四)条に、国造の地位をめぐる争いで登場する「橘花」が初見である。

 そうして近世・近代まで、郡として村として「橘樹」・「橘」の地名は存在していた。明治二十二年(一八八九)の市町村制施行時の橘樹郡は、川崎・神奈川・生田・町田村など三町二十ヶ村からなっていた。それが昭和十二年、市との合併によって、『和名抄』(平安時代の事典)にも「太知波奈」と注記がある程に由緒のあった「橘樹」・「橘」の呼称が完全に消滅することになってしまったのである。非常に惜しくかつ残念であった。

 さて、往古を懐かしむ心情も働き、本書の出版準備を始めたが、すでに丸三年の歳月を費やしてしまった。当初出版に踏み切るまでには相当の迷いがあった。

 約四十年余りにも及ぶ資料収集によって書く材料には事欠かなかった。なかでも門外不出の古文書と書いた資料は、古くは藤原南家系統にかかわると確信できる旧家に伝わるものである。この資料に接し、当地方の古代史の動向解明におおきな骨格を掴むことができたのは何よりの幸甚であった。しかしはたしてこれを公表してもよいものかどうか。最初に迷ったのはこれであった。

 次に迷ったのは、川崎の歴史はすでに長年にわたる先学諸兄の努力によってすでに整理され、市域の発達に関する市民の歴史観も普遍的に固定化している。特に影向寺は、川崎の古代史解明の原点として位置づけられ、また寺の由来を伝える立派な縁起文も存在する。だが史実とされてきたものの中にも多くの謎が組み込まれている。にもかかわらず、謎は謎として一向に違和感をもたれずに肯定的に受容されてきたのが現状であった。そうした折、「眠る子を起こす」ようなことをするのははたしてどうゆうものか、と正直迷っていたのである。

 そして考えた末、やはりこれは発表すべきだと決断した。

 その理由は、門外不出の古文書類はすでに焼失してこの世になく、それを知り、書き写した者は私一人となってしまった。私の心の中に後世に伝えのこす義務感が芽生え、そう感じた時、素直に決断ができたのである。時あたかも影向寺薬師堂の昭和の大修復が進行中で、その記念事業の一環として拙書を発表させて頂くことにした。

 出版に至るまでには、影向寺はもちろんのこと、写真家の小池汪氏、デザイナーの佐藤靖氏、校正を手伝って頂いた森村学園講師杉原氏、村田文夫氏等多くの関係者の御協力を賜わった。また玉川文化財研究所(所長・戸田哲也氏)からは、未発表資料にもかかわらず貴重な写真提供を受け、さらに日本大学文理学部史学研究室(竹石健二教授)と川崎市民ミュージアム準備室からは、写真掲載にあたり格段の御配慮を頂いた。これら関係者・関係機関には、心から御礼申しあげる次第である。

 最後に諸兄姉に御一読あらんことをひそかに願いながら、擱筆とする。       著者